昭和48年04月23日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ子孫迄も残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る、みてると言う事が無い。」

 先の世までも持って行かれ、次元の違った世界と云う様な事を申します。次元が違うとこう。信心させて頂いておると云う事が、親のある子と無い子程の違いとも仰る。その親のある子程の違い、その違いと云う所がハッキリして来なければならんと、信心させて頂く事に依って、又信ずる者は肉眼を置いて心眼を開けとも仰る。普通は人間の、まー人間の世界と云うですか、いわゆる肉眼的な世界。信心させて頂く者は段々と心の目を開かせて貰うて肉眼から、心眼の世界へ入って行く。
 ですから物の見方と云う物が全然変って來る。それを又別に表現すると暗黒の世界から光の世界と云うてもいいだろうと思う。信心の無い間は、肉眼を持ってすると一切が難儀に見える。いわゆる此の世は苦の世苦の世界と云う様な風に見える。それが肉眼の世界である。心の目の世界、いわゆる心眼の世界と云うのは、一切が有難いもの、とに見えて來る。だから信心のある者と無い者とは親のある子と無い子程の違いと云う事になって来る。心の目の世界、心眼の世界。
 そこで信心すればと仰る。神徳と云うのは心の目を開いた人の姿が神徳を受けた人の姿だと云う風に思う。是は成程、先の世までも持って行かれる筈だと、いわゆる次元の違った此の世あの世までも持って行けると云うのは、いわゆる心の目を開いた者の姿だと云う事。心の目を開かせて頂くと云う。いわば日々信心の稽古をさせて頂く。信心を頂いておりましても、只、難儀は難儀と、その難儀から助けて頂きたいと願うと云うだけの信心ではです、それは神徳にもならない。神徳を受ける事にはならない。
 昨日午後の奉仕の時に伊万里の竹内先生がお祝いに出て見えて、前の日がおばあちゃまの十日祭を若先生と徹さんと二人で行って仕え、その御礼と同時に昨日から東京へ出張になった。市長さん達の会議がある。その時に私、竹内先生から昨日の御理解を頂終ってお話を聞いたんですけれども、今日の先生御理解を頂き乍ら恐れ入ってしまいますことは、今生態学と云う学問が出来ておると云う訳です。生態学と云うのは、生きる様の学と、体はあのー状態の態、生きる生態学。
 それはね、例えば人間が人間の力で、自分達の首を締める様な生き方をして来た。だからそう言う生き方ではいよいよ、地球上に住む人間が自滅を辿るより他にないと云う所に極まった訳です。現在の世は。ですから、そこから今迄の様な生き方ではいけないと云う、いわゆる学問だそうです。いわゆる公害が無くなって行くと云う生き方です。云うなら、公害がなくなって行くと云う生き方。それには物の見方考え方、いわゆる信心で云う心の眼を開いた人の見る世界の学問ずけると言う訳です。
 教祖の神様はそれを、もう云うなら百年も前に言っておられる。昨日の御理解の中に、天地宇宙の事が説いてある。宇宙の中での一分一厘間違いの無い、いわば宇宙と云う事は天地と云うことであるが。その天地の中に色々な働きがある。その働きが一分一厘も間違いのない働きと云うものを示して下さる。その例を太陽の周囲を地球が自転して回っておる。その周囲を月が又回っておる。もう一分の狂いがあっても大変な事に成るであろうけれども、それがもう規則正しく秩序正しくそういう働きがあっておる。
 そいう働きが地球の中にも有る筈だ。云うなら地球上に住む人間の世界にもその間違いの無い働きがあるんだと。だからその働きを先ず分かって、その働きに即応した生き方をさせて頂くと云う事の学問が生態学と云うことである。ところが昨日私は其処の所をです、教祖様はそれを例えば、親と子と云う情感を持ってお説き下さってある所に、どう言うそれが難儀な、云うなら様相を示しましても、難儀を感じましても、どういう例えば辛いことでありましても、成程辛いことは辛いけれども。
 けれども有難う御座います、親様なればこそ親なればこそと云う情感が通うて來るのが金光様の御信心だと云う事を説いておった。その情感という所がです、いわゆる学問では出て来ないのであり、又は哲学では出て来ないのであって、勿論哲学も学問でしょうけれども、今迄その哲学と云う学問からでも、宇宙のいわゆる大宇宙と小宇宙。その大宇宙の働きが小宇宙の、小宇宙と云うのは人間私共のことの上に現れる世界と云う風に哲学では説いておる。だから教祖様でもそれは同じである。
 天地の親神様の云うならお心がその神様の氏子である私共の上に現れるとこう。その表れ方がです教祖が説かれたそれは情感を持って、情感をじる説き方をなさった訳。今云う成程親様なればこそ、親神様なればこそと云うものを実感じながらですから、それはどんなに辛い苦しい事があってもです、親様なればこそと云う情感の中にいよいよ心の眼を開いて修行が出来るという意味なんです。
 生態学と云う、学問という事にもなろうけれども、それに血が通うて來る訳です。肉が付いて來る訳です。そして限りない、最後にみてると云う事はないと仰せられる程しの、云うならおかげになって行くと言うのが金光教の信心。それを子孫繁盛、家繁盛と説かれる。是は見てると云う事が無い。御神徳を受けると云う事はもう限りがない物。その限りがない物ですから、限りないそれにおかげが伴うて来ると云うのが金光教の信心の特異性と云うても良いいかも知れません。
 子孫繁盛家繁盛なんて何か説いたらその宗教は低級だと云う様な間違った考えをしておる宗教がいくらも有ります事ですね。けれども、臆面もなくその事を堂々と、それこそ人間の例えば難儀を感じるものであるならば、それはもう人間に関係のある事なら牛馬の事に到るまで実意を持って願えと仰る、教祖金光大神は。人間の幸せ幸不幸に継ながる事であるならば、牛馬の事に到るまで実意を持って願えと。
 そう言う願いが現れて來る世界、そう言う世界に住むと言う事。いわゆる次元の違った物の見方考え方が出来る所に次元の違ったおかげの世界。天地の親神様の心が氏子私共の心の上に現れて下さる、大天地が小天地である所の私共の上に現れて下さる世界、そういう世界に住むと云うおかげを頂くと言う事がいわゆる有難いと云う世界であるが、その有難いと云うそれがあの世迄も持って行かれる。
 だからもう既にこの世でです、あの世に持って行ける物の全てが、云うならば揃うておかなければならんと云うのです。それはいわゆる次元の違った物の見方感じ方が出来る様にならなければならないと云う事です。今迄は不幸とばかり思うておったのが、親様なればこそこの様にして本当の事を分からせて下さる、お育てを下さると云う情感をもって有難いと云う心が湧いて來る様な世界に住む事がです。
 私は真の信心の世界であるとこう思う。そう言う信心をすればだれでも、あの世までも持って行かれる、此の世にものこしておける神徳というものが頂けると云う事になるのです。そこでです、私共がそう言う次元の違ったものの見方感じ方の稽古が日々なんです。そのけいこと云うその物がです、ただほんとうに稽古であり生き生きとしたものでなからなければならない。
 昨日日曜日でしたから、特別奉修委員の方達に聞いて頂いたんですけれども、お互いが朝参りでもさせて貰いますと何とはなし心が弾んでくる。生き生きとさあ今日はこの御教えで行くぞと云った様な、その一日の計が朝の御祈念で立つ訳です。今日はこの御教えを自分の一日の中心としてと云う生き方をしておるのですけれども、それが昼とも夕方ともなって来る。いやもう帰ったらもう元にかえっておると云った様な事が有る訳です。そこで私共の心が生き生きとして弾むものがない。
 そこに例えば修行があるんだと。と、云う事を私は例えば、はー今日はもう疲れて風呂にも入るごとなか、此のままもう休んで眠ろう事ある。と云う時にです、修行と思うて風呂に入る。もう今日はざぶっと浸かったら、もうすぐ上がる、もう洗うともきつい位にある時もある、時に、ならその体を丹念に洗うと云う事を、是を修行と思うて洗いよる内に不思議に修行ですから修行を神様が受けて下さる証拠に心の中に生き生きとして弾んで来る物があるのです。
 その弾んで来るその心が、生き生きとした心なんです。そういう心を絶えず例えばかき立てかき立て、信心修行にいそしまなければいけない。そういう心で教えには取り組まなければ駄目だと。そこからいわばそう言う信心から、私は心の眼が開けて來ることになると思う。昨夜の御祈念に熊谷さんがお参りになって、朝の今の特別奉修委員のその事を聞いて帰っておられた。
 昨日例えば丁度その様な状態になった時にです、是を修行と思うてとこう思わせて頂いたらもう不思議と力が湧いて來る。生き々として来る。おかげで夜の御祈念にもお参りが出来たと云う様なお届けをなさっておられます「はあきつか、きつか」と云うその時が大事なんだ。その時にですきつかろうけれどもやはりたった些細な事であってもです、もうそれを修行と思うてと、云うなら体なら体を洗わせて頂いておる内にです、
 確かに神様がそれを修行として受けて下さる証拠に、心の中に蘇って來る様なものを感ずる。そういう精進が私は必要であると同時にです。私は昨日天地が自由に、小天地の私共の為に働いて下さる有難い世界と云う様な事。一糸乱れぬ秩序整然たる宇宙があり整然たる私共の生活がある。秩序有る例えば整然たる生活と云うのは、例えば昨日はぎりぎりの所お任せする生活と云う意味の事を申しましたですね。ですからそれはどう言う事かと云うと、天地日月の心に成る事肝要と仰るそれなんです。
 天地日月の心になると云う事は、もう天地と言う事は宇宙と云う事。その宇宙の働き天地の心を心として生きる生き方。日月と云うのは、いわゆる一糸乱れぬと云う事である。そう言う生き方が段々出来る様になって來ると云うと、大変難しいですけれども、例えば自分の心が生き生きと例えば、弾んでくる。そう言う心で例えば修行させて貰うと言う。修行と云う事は必ずしも火の行、水の行と言った事だけではない。生活の中にその修行を私共は発見して行くと云う事。
 そこから生き生きしたものが生まれてきて、所謂成程例えばきついなあと思う事もです、修行させて下さる神様の御神慮であったと云う様な事が分かって来る。そして次の生き生きとしたおかげを頂いておる。ですからそう言う些細な事からです、所謂きついと又はきつくない有難いと云う二つの物が有ると云う事。そこから所謂心の眼と云う物は開けて来る。そう言う稽古が繰り返されて行く所からです、いわば一糸乱れぬ秩序のある整然たる生活と云う事が云える様になって来ると云う訳です。
 信心すれば誰でも受けることが出来る御神徳、しかもみてると云う事がない。限り無く頂いて行けれる。それを成程親様なればこそ、親神様なればこそと云う情感を持ってです、私共は、言うならば竹内先生のその、あれを聞くならばです、いわゆる生態学を学びながらです血肉を付けて行くと云う事。そこには公害と云うか、困ったと云うか難儀な事のない、いわゆる別の世界に出れる云う事になります。ですからもうこの世で私共は、いわゆる次元の違った。
 例えば信心の有る者と無い者の区別がハッキリした世界に住まわせて頂く。そう言う稽古からしか、御神徳は受けられない。 あの世に持って行け、此の世に残しておけると云う物は、そう言う風に思うです。今日は先の世までも持って行かれと云う所を、次元の違った世界と云う風に聞いて頂きました。ですから、その次元の違った世界に、私共が今住んでおかなければ、そのままあの世に持って行けないと云う事を、聞いて頂いたんですけれども。少しややこしゅう説きましたから、どうぞ。
 信心の無い世界を真っ暗な世界だ。信心の有る世界を光の世界、明るい世界だと、云うならその明るい世界に皆さんが今住んでおられれるなら、もう本当に御神徳を身に付けて行かれる稽古が出来おると云う事になります。けれどもまあだその真っ暗であるとするならばです、只おかげの事に捕らわれてしまっておるのですから、信心を頂いておる者、頂いてない者の区別がまだハッキリ付いてないものですから、ここの区別のつく様な信心に進ませて貰わなければならんと云う事になります。
   どうぞ。